CULTURE_Vol.1

 

 

俳優・歌手 吉野 悠我さん

 森繁久彌さんに初めて会って、一発目に「どうしたんだその顔は」と、強烈なはじまりの言葉。こういう顔が売れる時代は終わったと、一等両断。でもあとになってひしひしと感じる愛情。「吉野悠我」は、そのとき始まった。初対面で、あっという間に名前を決められ、断るすべもないまま、吉野悠我が誕生した。そこには何か因縁みたいなものを感じるほど・・・。吉野悠我は遅咲きの桜、今満開となる時が近づいています。
 

Q. 「俳優・吉野悠我」はどんな環境で出来上がったのか・・・


 私の母は石川県の手取川※1という川の上流にある白山市白峰村の出身で、その同じ川の下流にある能美市粟生というところが父の出身地なんです。二人の出会いは金沢で催されたダンスパーティなんですが、父の方が夢中になったそうで、母はそれほどでもなかったようなんです。
 母が住んでた白峰村というのは当時豪雪地帯で、白山に登る拠点の村だったので、父は兄弟や友達と白山登山を計画し、母の実家を事前に調べ目をつけておき、「丁度よいところがあった、この家で休ませてもらおう!」と偶然を装って訪ねたわけです。母からすれば嫌な奴が来たという感じだったのでしょうが、祖父(母の父)は、「せっかくこんな山奥まで来たのだから・・・」と無下にも断らずお茶でもということになったようです。
 祖父は村長もしているようなその辺では昔からの名士でした。結局、お茶もなんだからとビールが振舞われ、父は初めて訪ねた家にもかかわらず、大きな囲炉裏の前の熊の毛皮の上にドンと胡座をかいてビールを一気飲みしたそうです。その姿に、「なかなかの男だ!」と祖父の方が惚れてその先は、トントン拍子に結婚に至ったそうです。母19歳、父24歳の時だそうです。その数年後に、私が生まれました。
 父方の祖父もまた、手取川の治水に命かけた人で、昭和9年の大洪水で多くの村人が亡くなった時の消防団の団長が祖父でした。多くの友人が川に流されて行くのを見て、「この村は俺が守る」と私財をつぎ込んで治水に命をかけた男でした。いまでも、川岸に銅像が建っています。
 母方の祖父は、白峰の山里に映画館を作ったんです。金沢市の隣の野々市市というところと2件の映画館を経営していました。やはり芸事が好きだったんですね。ですから、ぼくの子供時代を分かりやすく言うと、映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」そのまままでした。いつも映写室から映写技師さんと一緒に並んで映画を見ていました。床に傾斜をつけると工事費が高くなってしまうので、後ろの方は椅子の足を高くした作りで、寒い冬には通路の真ん中に火鉢を置いて手を炙りながら観るといったような映画館でした。名前は「白峰劇場」といったかな。祖父は雪が降って車が使えない時などでも、村人に映画を観せたくてフィルムを背負って雪の山道をカンジキ履いて何里も歩くような人でした。洋画はありませんでしたけど、邦画は東映、松竹、日活などいろいろ映していました。そのころ私は「大きくなったら何になる?」と聞かれると、「石原裕次郎になる」と言っていました。まだ、俳優という言葉もわかりませんでしたからね。
 そこで、フィルムを回す仕事を手伝ったり、幕間にレコードをかけたり、時には売店で物を売るのを手伝ったりして、好きで一日中映画館にいるような子供でした。
 

1 手取川は、石川県の主に白山市を流れて日本海へ注いでいる一級河川。石川の通称で呼ばれた時代もあり、郡名および県名の由来となっている。

 

Q. 演劇との出会いは「喜劇」から・・・


 小学校3年の時に、金沢に藤山寛美さんが来たんですよ。その時、祖父はそれを観に行くのにぼくを連れて行ってくれたんです。初めてプロの演劇を観たのがその時で、今でも忘れない「夜明けのスモッグ」というタイトルで、貧乏な乞食が、実は大金持ちの家のお坊ちゃんだということがわかって、さっきまで汚い格好をしていたのが、突然すごいお坊ちゃんの格好で出て来るんだけど、乞食の方がよっぽど楽しかったという喜劇でした。面白くて、それは未だに忘れませんね。その後、藤山寛美さんは毎年夏の終わり頃に金沢に来ていたので、その度に祖父に一緒に連れて行ってもらいました。
 同時期にTVでは、コント55号が世の中に出てきました。忘れもしないのはTBSで水曜日の夜に「お笑いカラー寄席」という番組があって、TVの前にオープンリールのレコーダーを置いてコント55号を全て録音し丸暗記しました。さらに自分でコントクラブを作って、一番仲の良い少し太った友達に二郎さんの役をやってもらい、私は金ちゃんの役でコント55号の真似をしていましたね。中学の文化祭に、当時放送していた大河ドラマの「竜馬がゆく」をパロディにした、「平馬がゆく」という脚本を書いている作家と担当編集者のコントをみんなの前で演じたら、次の日に二人とも校長室に呼び出されました。あのころ、校長室に呼び出されるということは叱られることと思いこみ、緊張して行ったら、校長先生から、昨日のコントは最高に面白かったから卒業生を送る会でもやってくれと頼まれた。二人とも本当に嬉しくかったのを覚えていますね。つい先日もお互い61歳になった同窓会で、その相方に会って聞いたら、「あの時は本当に嬉しかった。ひょっとしたら、あれ以来あんなに嬉しかったことは無かったかもしれない気がする」とまで言ってくれたぐらいです。同窓生もみんなそのコントは覚えていてくれたね。原点はお笑いだったね。
 スポーツがダメだったので運動会では活躍できない悔しさを、その後の文化祭ではスターになって人気者になれた。余興とかはあいつに頼んでおけば大丈夫だということになって、そういうことが得意だと自他共に認めるところとなっていった。それは、母も気づいていた。
ただ、そんなもので飯を食っていけるものでもないし、その方向へは行ってはいけないんだと自分で言い聞かせていたね。

Q. 人生の最大の決断


 その後、明治大学に入り、なぜか政経学部に進んだけど、いざ卒業するころになるとやっぱり就職活動ができないんだよね。田舎に帰って家業の織物業もつぐ気になれないしで・・・。そんな中、大学3年生の時に一人で1ヶ月ちょっとヨーロッパを旅して回ったんです。ユースホステルに止まったり野宿したり、ドイツでは農家に泊めてもらったり、ホテルは週に1度ぐらいとあの頃らしい節約の旅でした。しかし、そんな節約旅行の中で、気が付いたら名所旧跡などのいわゆる観光地には行かず、毎晩芝居を観ているか、バレエを観ているか、オペラを観ているかの自分がいた。パリでもどこでも全部のお金をケチって、昼は映画、夜は芝居などを観るだけに使っている自分に気づき、たまたまパリのエッフェル塔の近くのエッフェルエリーゼというホテルに泊まった時に、窓の外の土砂降りの雨を見ながら、日本に帰ったら両親に手をついて役者になりたいんだけど許してくれと言おうと決心したのを忘れもしません。今、毎年のようにパリで公演する時の劇場はそのホテルから歩いて2、3分のところの劇場だというのも何か縁を感じます。
 日本に帰ってきて親に話をしたら、「いつ言い出すのかと思っていた」と自分の思いに気づいていた。親としては、自分がみんなの前でコントをして、みんなを楽しませたりすることを誇らしく思っていてくれていた。勉強ができるわけでもないし、親の方から「お前はそれしかない」と反対も何もなかったんです。

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Profile


学歴:実践女子大学卒業
職歴:OL、保育ママの手伝い
スペインに対する興味は小さい頃に見たサントリーローヤルのCMで、
ガウディの作品を見たことがきっかけです。

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